Vol.5 日本人の足を知り尽くしたオーダーメイドのような履き心地

2009年4月 8日 14:26 更新

ある日のことである。当時はまだ、小さな靴メーカーを営むに過ぎなかった菊地武男さんは、ふと目にした娘たちの靴に愕然とする。デザインは申し分ない、ただあまりにも型崩れが激しかった。娘たちが履いてたのは、自社で販売していた、売れ残りの靴。さっそく娘たちの足を調べると、いくつかの関節が脱臼し変形。いわゆる、外反母趾(がいはんぼし)を起こしていた。明らかに、靴に原因があった。娘たちに対する反省と後悔。そして失意の中、ある決意をする。履きやすい靴を作ってやる、と。1975年、世は大量生産/大量消費の時代。その時、すでに50歳になっていた。後に名人と呼ばれる木型職人の靴をめぐる挑戦は、自信の崩れ去る音ともに、皮肉にもこうして始まった......。

「娘たちと同じように、買い求めてくれたお客様が足を痛めているかもしれない。機能性よりデザイン性を重視する。足を靴に合わせるという考え方が当然だったんですね。それはつまり、製造業者が大量生産するのに都合のいい靴に、足を順応させるということでもある。そもそも足がどんな構造をしているか、何も知らずに靴を作っていたことを恥じました。学ばなくてはいけない。そして、東京藝術大学解剖学部の門を叩きました」

中尾喜保教授による特別講義では、人間工学と下肢解剖学を学んだ。そこで、日本人と欧米人の足は骨格が大きく異なっていることを知る。靴の木型が日本人の足に足になじまないのは、欧米型のそれをそのまま使っているからだった。木型とは、靴作りの基本である靴型のことで、靴の良し悪しを決定する。つまり、日本人の骨格を反映させた木型が必要なのだ。さっそく木型の専門業者に削ってもらうよう依頼したが、上がってきたものは、どれも理想からは程遠かった。もう自分で削るしかない。靴に関わる以前、旋盤工として腕を磨いた若かりし日の記憶と自信はまだ残ってる。しかし、いちから木型を削ったことなどない。55歳という年齢にとって、大胆な決断であることは言うまでもない。
「アングロサクソンとモンゴロイドとでは、そもそも足の骨格が違う。農耕民族の踵骨(しょうこつ)は短く、狩猟民族は長いんですね。つまり、欧米人の木型が、日本人に合うわけがないんです。さらに靴を作る時は、左右60個の骨と筋肉、神経など膝から下の筋肉の働きを考えて作る必要がある。足の骨がどういう構造になっているのかを解剖学的に知らなければ、木型を作るにも、生身の足のどこを測定するのかがわからないんです」

問診、見診、触診――菊地さんのフルオーダーメイドの靴作りは、ここから始まる。体質、体調、病歴なども聞く。続いて、足の測定。片足につき30分~1時間をかけて、15ヵ所も計測していく。両足で30ヵ所。足は決してシンメトリックではないのだ。足を計測する機器の大半は、どれもいちから作ったものである。足の診断と計測が終わると、木型を設計するための作図に入る。足背計測したラインをもとに、山岳地図の等高線さながらに線を引く。そこからミズメザクラの木を荒削りしたモデル木型を起こし、ノミや回転ヤスリ、木ヤスリなどを使って、人の足と見間違えるほどの、なだらかな曲線が生み出す。特徴的な中足部の足底部分につけるくぼみは、機械では決してつけることができない。こうして仕上げた木型をもとにして、型紙作り、裁断、製甲、底付け、仕上げという工程を経て完成となる。こうして、足と靴とのベスト・フィッティングが実現する。

「つまり柔道でいう、受け身のようなもの。趾が靴の側面に広く当たるようにすることで、広い面積で体重の衝撃を受けられ、負担が軽くなる。足と靴のベスト・フィッティングを生むためにも、"聞いて、見て、触る"診断は重要です。三診ね」

すべては顧客と向き合うことから始まる。その際、菊地さんは必ず白衣を纏う。取材中も、手にした足の骨格モデルを、指先でなぞりながら解説するその姿は、さながら研究熱心な医者のようだった。靴を生業にしている職人のことを、欧米では"膝下の外科医"と呼ぶようだが、その姿を見ていると妙に納得がいく。足に障害を負った女性たちが、自由に歩く姿が見たい。"外科医"と呼ばれる木型職人は、84歳のいまなおも、颯爽と街を歩く女性たちの姿を夢見る。そして菊地さんの技術を受け継ぐ新しい世代の職人たちが、若い人にもこの「オーダーメイドのような履き心地」を伝承していってほしいものである。


ダイナス製靴株式会社
住所 東京都北区王子本町1-5-13
電話 03-3908-1754
HP  http://www.dinus.co.jp

等高計測図と呼ばれる、木型製作用等高ラインが引かれる。足裏の形状を写しとった、フットプリントに合わせて、木型の設計の見取り図とする 手作りのスクライバーと呼ばれる計測器をはじめ、菊地さんの道具は独特だ。型紙モデルに使う紙も、日めくりカレンダーの紙の厚さがベストなのだとか

地下にある工房では、木型から起こした型紙をもとに、裁断、製甲、底付け、仕上げなど、一連の作業が行われる 木型を削っている時は、面会謝絶、電話も取り次がない。緊張感の中、30ヵ所の測定データに基づく、左右別々の木型を仕上げていく

いちど自分の木型を製作すれば、それに基づいて、熟練の職人が修理を施してくれる。靴は消耗品ではない、という発想だ 使用するのは肌理の細かい、若いシープ(羊革)。表面がデリケート傷つきやすく、作り手には扱いづらい素材だが、足にはよく馴染む

美術解剖学と人間工学に基づく設計技術を駆使し生み出された、菊地さんの代表的なデザイン